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横浜馬車道の街路樹とまちづくり

横浜都心部における馬車道の位置
横浜都心部における馬車道の位置

   みなとみらい線の開通や、歴史的建造物を新たなキャンパスとした東京芸大大学院映像研究科の開校などで一段と活気づく横浜の歴史的ショッピングモールである馬車道だが、都市の景観的魅力を向上させるために日本で最初に街路樹が植えられた通りであることは意外と知られていない。「横浜市史稿地理編」の記述に「慶応三年三月、馬車道通が開通した時は、各商店が競うて柳や松を街路に連植し、明治五年五月、本邦最初の瓦斯燈が点火されると、此等の街路樹が一と際見ばえし」とある。「近代街路樹発祥之地」記念碑は、1976年に完成した馬車道モールの延長として整備された馬車道広場に、横浜開港120周年を記念して1979年に建立されたもので、次のような碑文が刻まれている。

『街路樹は、近代に入ってから、人口過密な都市の景観的魅力を向上させる為に発達したものであり、参道並木、街道並木など、いわゆる地方並木とは区別されている。日本における街路樹は、明治以後、欧米都市の影響を受け、樹種の選択、植栽手入法の改良などによって、著しく進歩、普及した。
 1867年(慶応3年)、開港場横浜の馬車道では、各々の商店が競って柳と松を連植した。これが、日本での近代的な街路樹の先駆となった。1872年(明治5年)になって、馬車道に日本最初のガス灯が点灯されると、この街路樹は、さらに美しく映え、夜の涼を楽しむ人々で賑わった。』

「近代街路樹発祥之地」記念碑 日本大通り
「近代街路樹発祥之地」記念碑 日本大通り

   「馬車道」の名の由来でもある馬車が日本に初めて持ち込まれたのは、横浜開港後のことである。外国人たちは自家用馬車を主要な交通手段として用い始めるが、日本の道路のあまりの狭さに閉口したという。居留地のある関内と関外の境界である吉田橋に関門が設けられると、現在の馬車道と本町通りを結ぶ通りは主要道路となった。1866年(慶応2年)の大火の後に幕府と欧米列強の外交団との間で「約書」が締結され、後に日本で初めての近代道路といわれる120フィート幅の「日本大通」とともに、「馬車道」も60フィート(約20メートル)の道幅で整備するように要求され、道路の拡張工事が行なわれた時に柳と松の街路樹も植えられたという。
 馬車道広場の舗石には街路樹と同年代にこの馬車道界隈を発祥の地とする出来事が刻印されている(和英辞典1867年、写真館1868年、アイスクリーム1869年、鐵(かね)の橋1869年、乗合馬車1869年、日刊新聞1871年、ガス灯1872年)。これらを見ても当時の馬車道界隈がいかに進取の機運高くハイカラで、多くの人々で賑わっていたかが窺い知れる。明治30年代に入ってからは、日本最初の本格的繋船岸壁埠頭である「新港埠頭」の造成が着手され、馬車道は世界につながる新世紀の港の入口となる「万国橋」へつながる通りとして活況を呈した。

横浜正金銀行本店が建てられ賑わいを増す馬車道(1907年頃)の様子で、街路樹が大きく茂っている。(神奈川県立歴史博物館所蔵)
横浜正金銀行本店が建てられ賑わいを増す馬車道(1907年頃)の様子で、街路樹が大きく茂っている。(神奈川県立歴史博物館所蔵)

   その後、関東大震災や戦時中の大空襲、戦後の関内地区の接収などの歴史を経て、昭和40年代の写真を見ると、他の日本の多くの商店街と同じように歩道部分を蓋うアーケードが架かっており、街路樹はほとんど見当たらない。昭和48年に商店街活性化を目指す「モデル化商店街事業」が始まり、歩行者空間を中心とした道路そのものの魅力向上を目指す馬車道ショッピングプロムナードの整備が行なわれた。その結果アーケードは撤去され、歩道の拡幅や建物壁面の後退、レンガタイルによる舗装、街路樹や街路灯およびストリートファニチャーの設置などが行なわれ、横浜の歴史を髣髴とさせるレトロなデザインの通りとなった。この時に植えられたのが「アキニレ」で、当事の商店街の人達が、落葉樹で季節感があり車の排気ガスにも強いという理由で、日本における南限に近いにもかかわらず導入を決めたという。平成13年から再整備事業が行なわれ、現在では74本の「アキニレ」と2本の「ハナミズキ」が植えられている。歩道上にはウイスキーの樽を半分に切った花のコンテナが60個置かれており、また車道との境のベルト状部分にはヒノデツツジなどによる低木植栽の処々に長さ2〜3メートルくらいの演出植栽が26ヶ所施されている。冬の間はこの低木植栽に20,000個のランプでイルミネーションが飾られ、ロマンティックな大人の街路空間が演出されている。街路灯はガス灯発祥の地にちなんだデザインで、また低木植栽の中に設置された庭園灯や花壇下の足下灯などが街路樹と共に歩行者空間に立体的な間接照明効果をもたらしている。

「馬車道マルシェ」人力車や馬車に試乗できる。 現在の馬車道(旧横浜正金銀行/現神奈川県立歴史博物館前)
写真左:「馬車道マルシェ」人力車や馬車に試乗できる。
写真右:現在の馬車道(旧横浜正金銀行/現神奈川県立歴史博物館前)

   馬車道周辺では現在ビルの建て替えも盛んで、新たなシティ・ホテルの進出、マンションなど居住施設の建設や計画も進んでいる。危機感を募らせた地元の商店街や町会の関係者は、1975年に締結された街づくり協定の見直しからさらに進んで、建物の用途や形態に関するルール(地区計画)をつくることを目的に「馬車道地区まちづくり検討委員会」を発足した。
 かつて世界につながる埠頭であった「新港地区」は赤レンガ倉庫など観光文化施設が整備され、隣接する北仲地区も大規模な再開発が予定されている。馬車道はこれらウォーターフロントの拠点施設へつながる軸線であると同時に、その界隈は「文化」「芸術」による都心部活性化の主体となる市民やアーティストの居住地となり、また創造的産業の集積地となることが期待されている。BankARTなどの実験事業も確かな波及効果を及ぼしつつあるように思える。年に一度のジャズ祭(横浜ジャズプロムナード)以外の時でも、歩道を歩くとジャズが聞こえ、しばしば街角でジャズのライブ演奏も行なわれる。私自身もここに仕事の拠点を移してから、昔通ったニューオーリンズのフレンチ・クォーターを思い出して馬車道バーボンストリートと名付けたり、映画の撮影によく使われる北仲通りのあたりは、かつてハマのウォール街と呼ばれた事にちなんでリトル・ニューヨークと呼んで生活を楽しんでいる。馬車道は今も昔も「文化」「芸術」の香り漂う進取の街であり、街路樹は街を行き交う人々に潤いと安らぎを与え続けている。

「馬車道マルシェ」における馬車。 ジャズの街角ライブ演奏(神奈川県立歴史博物館前)。 馬車道を通る「横浜国際仮装行列」。 みなとみらい線馬車道駅地下構内におけるコンサート
写真左隅:「馬車道マルシェ」における馬車。
写真中央左:ジャズの街角ライブ演奏(神奈川県立歴史博物館前)。
写真中央右:馬車道を通る「横浜国際仮装行列」。
写真右隅:みなとみらい線馬車道駅地下構内におけるコンサート

  写真撮影は全て米澤正己による。
この原稿は季刊まちづくりに掲載されたものに加筆修正したものです。